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2011年05月 アーカイブ

はじめまして(^∀^)

今日からブログを書くことになりました!


ここでは自動車についてのことを中心に、中古車情報などを紹介していきたいと思っています。


見ていて楽しいブログが書けるかわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。


新規需要がほぼ頭打ちになりつつある日本市場での輸入車のシェア・アップは、日本車のシェアを食ってのものになることはいうまでもありません。


・・・このように、どんな角度から見ても、国内の空洞化は避けられない状況になりつつあります。


1993年、日本の自動車の国内生産台数は1122万7545台、前年比10・2%減で終わっています。


これによって国内生産は連続3年のマイナスになり、4年ぶりに1000万台を越えたアメリカとの差は約36万台にまで縮まりました。


そして今後は、過去12年間にわたって守ってきた世界最大の自動車生産国の座はアメリカに戻るという見通しが強いのです。


アメリカの自動車産業

第ニ次大戦後のアメリカは、史上最強、史上もっとも豊かな国として世界に君臨していました。


プール付きの広く贅沢な家、きらめくハリウッドのスーパー・スターたち、フリーウェイを大河のごとく流れるカラフルな大型車の群れ、世界の若者たちの心を捕らえたアメリカン・ミュージック・・・


とにかく、アメリカは憧れと羨望の眼差しを一身に受けていました。


中でも、派手なテールフィンとカラフルなボディ・カラー、クローム・メッキと巨大なV8エンジンを積んだクルマは、豊かなアメリカ、強いアメリカ、世界一のアメリカの象徴でした。


当時のアメリカ人にとって、「石油は安く無尽蔵なもの」であり、1リットルで3~4㎞しか走らないようなクルマが大衆車として君臨していたのです。


・・・しかし、そんなバラ色の夢は長くは続かなかったのです。


ベトナム戦争の泥沼化による経済的な圧迫と中東戦争が引き金になった石油ショックによって、アメリカン・ドリームは徐々にその色を失い始めます。


同時に恐竜のようなアメリカ車には、ガソリンを大量に飲み干すという意昧で「ガス・ガズラー」のニックネームが与えられ、批判の声が高まってきました。


そしてさらに、大気汚染という名の黄色い不気味なドームがロスアンゼルスを厚く包み込むに至って批判は一気に高まります。


そして、ついにはあの厳しい排気ガス浄化を義務づけたマスキー法を成立させることになりました。


この頃から少しずつ、中古車情報の量が増えていきました。


小型車志向

前回述べたような流れは、リベラルな考え方をもつ人々やインテリ層を中心に小型車へのシフトを強め、日本車が一気に浮上するきっかけになりました。


しかし、それにはマスキー法にならった排気ガス規制を日本がいち早く取り入れ、クリーン化と燃費改良技術を急速なべースで開発していったことも大きく貢献したのは、いうまでもないことです。


・・・ところが、アメリカのメーカーはといえば、過去の成功体験の甘い夢を忘れることが出来ず、利益の大きな大型車に固執し続けました。


低燃費指向、小型車指向は一時的なものであり一度甘い夢をみたアメリカの国民は、必ずまた大型車に帰ってくると信じていました。


実際、そのときの中古車情報量は大型車の方が多かったのです。


しかも合理化への設備投資を怠り、古く生産効率の悪い工場での高い賃金の労働者による生産を続けたのです。


「世界一」「世界最強」を信じていたアメリカ国民の自信が、ベトナム戦争の泥沼化や新興国日本の強力な経済的侵攻によって揺らぎ始めたこともマイナスに作用しました。


・・・さらに、労働者と労働組合を手厚く保護する産業政策が、アメリカの労働者たちのモラル低下を引き起こした流れも足を引っ張ったのです。

日米間の摩擦

例えば、労働慣行の制度化による責任範囲の縮小が進むにつれて、労働者たちが個々の分担範囲以外の仕事に無責任になってしまったこと・・・


そして、レイオフ中も失業保険が支払われることによって労働力の滞留が起こってしまったこと。


あるいは、自分たちの立場を保護するために、新しい技術や生産システムの導入に反対するようになってしまった等々といったことです。


高い人件費、効率の悪い経営、生産性の低い工場・・・


そして低下した労働者のモラルは、古くさくて品質の悪い車を生み出し、アメリカ車の競争力は弱体化の一途を辿っていきました。


当時のアメリカ車を、アメリカ人たちは自嘲気味に「喘息を患った恐竜たち」と呼んでいたが、まさにそんな状況だったのです。


その間隙を縫い、中古車の情報の多い日本車は「安くて、燃費がよくて、品質がいい」という強力な武器を引っ提げてアメリカ市場に攻め込み、シェアをどんどん引き上げていきました。


その勢いは「日本車ディーラーをやれば、豪邸もヨットもすぐ手に入る」といわれるほどでした。


そんな日本車の勢いは当然日米間の摩擦を生み、自主規制というバリアを生むことになりますが・・・


それはさらに日本メーカーの現地生産を促すことになります。

ユーザーの信頼

現地生産にはいろいろな形態がありますが・・・


質が悪いといわれていたアメリカの労働力は日本流管理下の工場で十分競争力のある価格と品質の車を造れることを証明してみせました。


それが、アメリカのメーカーの再生への大きな道標になったことは多くが認めています。


80年代に入り、アメリカはようやく本格的なリストラに取り組み始め、生産性の悪い工場が次々閉鎖され、大胆な人員削減が行われ、厳しい品質管理と開発の合理化に取り組み始めました。


しかし、その効果が徐々に出始めたのが80年代後半に入ってからです。


「休暇前の金曜日と休暇明けの月曜日に生産された車は絶対に買うな」とか・・・


「ダッシュボードの中からコーラのビンが出てきても驚くことはない」といった70年代のアメリカ車を象徴するような話は、80年代後半には徐々に影をひそめました。


そして、90年代に入る辺りからユーザーの信頼は確実に回復に向かっていきました。


その一方で、リストラの犠牲になったアメリカの労働者たちが中古車情報の多い日本車をハンマーで叩き潰し、火をつけ、TVがそんなシーンを大々的に報道するといったこともありましたが・・・


この頃からビッグ・スリーが力を回復し始めたことは問達いのない事実です。


こうしてアメリカが力を取り戻し始めたのとほぼ時を同じくして、日本の自動車産業は円高と不況に襲われ、輸出不振と国内市場の冷えこみというダブル・パンチに見舞われたのです。


復活のシンボル

バブル期に生まれた高価な車を多く抱え、生産設備への莫大な投資が大きな負担としてのしかかり・・・


こうして、日本自動車産業はかつてない困難に直面することになりました。


さて、アメリカ自動車産業復活のシンボル的存在として、94年1月にデビューしたクライスラーのネオンという車が大きな話題になりましたが・・・


2リットルエンジンを積み、2個のエアバッグを組み込んで8975ドル(約90万円)という価格は、確かにセンセーショナルでした。


・・・もっとも、これはまったく裸のモデルであり、むろんエアコンなどついていません。


いえ、ついていないというだけではありません。


もし、つけようと思っても、このモデルのラジエーターでは冷却容量が足りないので、「エアコンはつけられない」のです。


それほどまでにシビアにドライに、コストを切り詰めた車なのです。


この車は当時中古車情報も多く、一般大衆にとても人気の高い車でしたね。


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