"手放せない存在"になった車

自由に遠くまで、しかも速く動きたいという人間の欲望を高度に叶えました。


・・・この欲望は、原始の時代から現代まで基本的に変わってはいません。


なぜなら、自由に使える大きなエネルギーを手にしたいという欲望は、動物としての本能にまで根ざすものだからです。


だからこそ、大きな危険をはらんでいることは十分承知しながらも、人々はクルマを否定することはできなかったし、逆にわれ先に飛びついていったのです。


文明というものが、ひたすら自由と利便性を追うものだとすれば・・・


中古車情報の氾濫やクルマは、まさに文明の象徴というべきものなのです。


そして、あまりにも人間にとって魅力的な道具であったがゆえに、自動車産業は巨大化し、怪物化し・・・


今や国家の盛衰にまで大きく力を及ぼす存在にまでなってしまいました。


社会構造にしてもクルマが背骨になっている部分は多いですね。


・・・そんなわけで、例え大きな負担を強いられようとも、わたしたちにとってクルマはもう手放せない存在になってしまっているのです。


クルマを否定できるか

自然に憧れながらも、本能的には自然の心地好さを求めながらも・・・


いったん都市の生活に馴染んだ人間は、狼雑さや種々の危険、無数のストレスの要素をはらんでいることを百も承知しながら、文明の利器に埋まった都市から離れることはできなくなっているのです。


・・・そんな人たちの手足になっているのはむろんクルマです。


クルマがあるからこそ、こうしたニ重生活は成り立つのです。


中古車情報の多い都市と田舎、文明と自然の間を自由に行き来するという大きな贅沢が可能になっているのです。


・・・とにかく、クルマは人間の生活圏を大きく拡げ、人間の欲望を懐深く包み込んできました。


昔は基本的には徒歩圏内にしか生活圏は築けなかったのです。


自分の足で届く範囲の中で一生を過ごした人は多かったのです。


馬を使うようになってからも、自ずと行動範囲は限られていました。


・・・しかし、クルマはその半径を無限に拡げました。

自動車のプラスとマイナス

文明の発達は、人間に単なる物質的価値観の変化をもたらしただけでなく、精神構造的にも肉体構造的にも大きな変化をもたらしました。


中古車検索サイトの数が多いアメリカの都市生活者にとって、牧場をもつことは大きな憧れのようですが、その牧場には生産性など求められません。


敷地の中を馬が自由に駆け回り、小川が清流を運び、風が自然のままに吹き抜けていってくれればいいのです。


・・・しかし、自然とともに過ごすという憧れを実現できた幸せな人たちが牧場の中に建てる家は、都市生活とまったく変わらない文明の利器で埋めつくされています。


そして、週末になると、頭のてっぺんからつま先まで都市生活の香りをぷんぷんさせた友人知人を招いてパーティを開くか・・・


または、贅沢な4WD車に乗って都市の空気を吸いに出かけてゆくのです。


ヨーロッパでも金持ちはカントリー・ハウスをもっています。


しかし、そこはあくまでも週末のためにあり、バカンスを過ごすためにあるのであって、ほとんどの人たちは都市を離れようとはしないのです。

クルマは人類の自由のシンボル

自然への回帰願望をもち、自然の保全を願う気持ちを多くの人たちがもつのは当然のことであり、何の不思議もありません。


鉄とコンクリートとガラスの箱に閉じ込められて日々を過ごし、人間関係の複雑な軋櫟の渦のなかでストレスを募らせている毎日であれば、何も遮ることなく水平線まで見える海が無性に恋しくなるはずです。


木漏れ日を浴び、爽やかな風と鳥のさえずりの中に漂うことを夢見るのは当たり前のことなのです。


・・・しかし、現代の人間にとって、そんな願望はあくまでも強い非日常性の下に捕らえられているものであり、また非日常性が強いからこそ願望もより強くなるのではないかと私は考えるときがあります。


言いかえれば、都市に住む人たちは、文明の利器や中古車情報などの情報に取り囲まれて日々を過ごしているからこそ・・・


ときに不便と不自由を味わいたくなるのでしょうし、それを快感として楽しむことができるのではないかということです。


都市に住むことによって生じる様々なストレスも、都市で生まれ育った人間にとってはある種の高揚感をもたらす覚醒剤的な役割を果たしています。


それを切らすと情緒不安定になり、精神に萎縮をもたらしてしまうことさえ多々あるはずです。


・・・むろん個々に差はあれ、人間とはそんな動物だと私は常々考えています。


クルマの未来のために・・・


未来にも自動車は間違いなく生き残るし、中古車情報もますます増えていくことでしょう。


車がわたしたちのよき友であり続けることも間違いはありません。


しかし、300馬力を求め、威嚇的なサイズを求め、8個のスピーカーを求めるといったことは厳しく戒められるべきです。


社会という枠の中で、地球という枠の中で、移動の自由と最高のプライバシーの場をもたらしてくれる車を失わないようにするためには・・・


わたしたちユーザーが"クルマ"の真の価値を再確認し、自らが肥大化した部分を削り落とす意識を強くすることこそもっとも必要なことなのです。


・・・そうしなければ、自動車は"終焉"の淵に向かって進まざるをえなくなってしまいます。


「自動車は人間の自由を奪っている」といった意見を声高に口にする人もいます。


「自動車はいつか地球を人間から奪い取ってしまうのではないか」といった不安を口にする人もいます。


・・・確かにそうしたマイナスの側面があることは否定できないですが、同時に自動車がわたしたちにもたらしたプラスもまた大きいことを忘れてはなりません。


自動車を囲む高く厚い壁

もし、自動車に意志があって、


「オレはもう役目を果たした。そろそろお役ご免といきたいところだよ」


・・・と言い出したとしても、わたしたちは必死に袖にすがって引き止めざるをえないのが現実です。


中古車情報の多い現在、世界で6億2000万台(推定)の自動車保有台数は、今世紀末までにはさらに大きく増え、7億台を超えるものと予想されています。


中国などを中心とした途上国の経済力がついてくると思われる10~15年後には、その増勢はより加速度を強めることにもなるに違いありません。


・・・こんな話をすると「地球はいったいどうなってしまうんだ」と叱られそうですが、現実的にはこうした状況を否定することは不可能です。


・・・となれば、厚く高い壁を一歩一歩でも上ってゆくしかないでしょう。


世界が手を取り合って少しでも悪い状況を減らす努力を重ねてゆくしか手はないのです。


そういう意味では、人間の欲望に限りなく寄り添って肥大化してきた今までの「自動車」のありよう・・・


より大きく、より速く、より贅沢なといった、つまり「拡大指向の自動車」が終焉を迎えようとしていることは確かでしょう。


自動車の終焉?

自由だということは、車と人間の関係を考えるときの非常に大きなポイントです。


・・・そして、多くの自動車への議論はここを抜きにして語られています。


前回記したようなことを求める人間のメンタリティは、おそらく基本的には永遠に変わりはしないでしょう。


仮想現実の世界に囲まれた世代の人間であっても、動物としての健全な本能を失わない限り変わりはしないと私は考えます。


・・・例えば、コンピューター・マシン相手に人間が抑えようのない愛を抱けるようになるものでしょうか。


そんなことはありえないし、あってはならないことです。


環境、資源、安全、政治・・・


どちらを向いても自動車を取り囲む壁は高く厚いものです。


悲観的な見方をする人には、最後は底無し沼に落ちるしかない迷路をさ迷っているかのように思えるかもしれません。


自動車の終焉です。


・・・しかし、中古車の検索サイトで見つけることができる自動車に取って代われる魅力的な移動手段が出現しない限り、それは不可能なことです。


車で自由な時間を過ごす

例え大きな家に住んでいようと、しっかりした鍵のついた分厚い樫の木の扉で隔離されていようと、家の中にいるかぎりは決して真の意味での独りにはなりきれません。


・・・しかし車なら望みを叶えてくれます。


扉を閉め、ステアリングを握れば、車はわたしたちに鳥のさつな自由を与えてくれるのです。


海を見たければ見せてくれるし、山の空気が吸いたければ吸わせてくれます。


大声で叫びたければ叫べばいいし、夜空を唯一の友に想いに耽りたければそうもさせてくれます。


車は最高の弛緩空間であるとともに最高の思考空間でもあります。


もちろん場面を変えれば、最高の高揚をもたらす空間にもなってくれます。


公共交通機関の致命的な弱点はここにあります。


単に「ドアtoドア」という便利さに欠けるだけではありません。


・・・そこには「自由がない」のです。


こうしたことは、中古車情報などをいつもチェックしているような車好きの人ならきっとわかってもらえますよね。


復活のシンボル

バブル期に生まれた高価な車を多く抱え、生産設備への莫大な投資が大きな負担としてのしかかり・・・


こうして、日本自動車産業はかつてない困難に直面することになりました。


さて、アメリカ自動車産業復活のシンボル的存在として、94年1月にデビューしたクライスラーのネオンという車が大きな話題になりましたが・・・


2リットルエンジンを積み、2個のエアバッグを組み込んで8975ドル(約90万円)という価格は、確かにセンセーショナルでした。


・・・もっとも、これはまったく裸のモデルであり、むろんエアコンなどついていません。


いえ、ついていないというだけではありません。


もし、つけようと思っても、このモデルのラジエーターでは冷却容量が足りないので、「エアコンはつけられない」のです。


それほどまでにシビアにドライに、コストを切り詰めた車なのです。


この車は当時中古車情報も多く、一般大衆にとても人気の高い車でしたね。


ユーザーの信頼

現地生産にはいろいろな形態がありますが・・・


質が悪いといわれていたアメリカの労働力は日本流管理下の工場で十分競争力のある価格と品質の車を造れることを証明してみせました。


それが、アメリカのメーカーの再生への大きな道標になったことは多くが認めています。


80年代に入り、アメリカはようやく本格的なリストラに取り組み始め、生産性の悪い工場が次々閉鎖され、大胆な人員削減が行われ、厳しい品質管理と開発の合理化に取り組み始めました。


しかし、その効果が徐々に出始めたのが80年代後半に入ってからです。


「休暇前の金曜日と休暇明けの月曜日に生産された車は絶対に買うな」とか・・・


「ダッシュボードの中からコーラのビンが出てきても驚くことはない」といった70年代のアメリカ車を象徴するような話は、80年代後半には徐々に影をひそめました。


そして、90年代に入る辺りからユーザーの信頼は確実に回復に向かっていきました。


その一方で、リストラの犠牲になったアメリカの労働者たちが中古車情報の多い日本車をハンマーで叩き潰し、火をつけ、TVがそんなシーンを大々的に報道するといったこともありましたが・・・


この頃からビッグ・スリーが力を回復し始めたことは問達いのない事実です。


こうしてアメリカが力を取り戻し始めたのとほぼ時を同じくして、日本の自動車産業は円高と不況に襲われ、輸出不振と国内市場の冷えこみというダブル・パンチに見舞われたのです。